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「毎アル」自主上映会を終えて

こんにちは、ホイちゃんです。

11月22日(日)、文京区の不忍通りふれあい館ホールで、認知症ドキュメンタリー映画「毎日がアルツハイマー」の自主上映会+グループトークイベントを開催、無事終了することが出来ました。連休中日にもかかわらず、ご参加頂いた皆様、改めてお礼申し上げます。

 

わたしの告知や申し込むフォームが“エグい”書き方だったことも影響したのかw、参加者は割とプロ志向というか、福祉の専門職の方が多かったように思います。しかし逆に、「毎アル」を上映情報から辿って、我々のイベントに辿り着いた、今日の今日まで「LGBTって何?」というノンケカップルの方々も参加されていて、WSは逆に新鮮味がありました。(彼らからはLGBTの方々と触れ合えてよかった、という感想を頂いております)映画を軸にしたイベントを企画すると、こういう予期せぬ素敵な出会いが生まれることもあるんだなぁ。

 

さて、まず僕個人の映画の感想を少し。

この映画は、女性ドキュメンタリー作家の関口監督が、自身のお母さんが認知症の疑いあり、と上の階に住んでいる妹夫婦から連絡を受けるところから始まります。海外在住だった監督は、夫と子供を置いて実家に戻り、そこで母と共に暮らす。その中で、認知症の診断を受けたり、介護サービスにつなげたりと(その間に、息子と夫が帰ってきたり、東日本大震災が起きたり)、初期~中等度手前くらいまでのアルツハイマー型認知症がゆっくりと進行する過程の中で起こる様々な出来事を、まさに日常風景をビデオで徹底的に撮りながら描いていきます。

映画自体は、同居開始から3年後くらい、引きこもりがちなお母さんが徐々に地域の社会資源と繋がりを持ち始め、イケメンヘルパーさんとも出会ってイキイキしているシーンで終わる、というある意味ハッピーな締め方をしていました。

 

若年性アルツハイマーの主人公を演じてオスカーを取ったジュリアン・ムーアの今季ヒット映画「アリスのままで」を見たときも印象に残った点ですが、認知症と「家族」の問題。これが「毎アル」でも通奏低音のように流れているわけです。

なぜ、監督は“夫と子供をオーストラリアに残して”、母親との生活を選んだのか?(妹夫婦が上の階に住んでいるのに)

ボケた母親の、強がりとしての「早く帰ればいい、わたしは一人が楽だから」という発言から滲む、かつての気丈な性格と、息子が一時帰国し、結局オーストラリアに帰ると知ってびっくりする(ボケてるので毎日その事実を“知って”毎回驚く)、その子供のように純真な感情の発露、そして息子と一緒にオーストラリアに帰らない監督を、「あんたそれでも母親か」と詰るシーンの、あの母親の“覚醒したような”顔・・・。

ほのぼのとしたパッケージの中で、認知症の母親をフィルターにして、関口一族の家族模様が鋭く浮き彫りになる感じが、強く印象に残りました。

 

家族の中に認知症の人が出る、ということは、これまで強固に、ある地点で固定化していた家族の関係性が、どうしようもなく流動化していき、別の着地点へと向かっていく、そういう過程そのものなのかもしれないな、と思いました。(その点、家族の中にゲイをカミングアウトする人が出てくる、という問題とどう絡められるか、興味深いところです)

 

いけないいけない、あくまでこの記事は僕の映画感想文ではなく、イベントレポートなのであった。このイベントでは、ある意味で、上記のような血縁家族を最終的に形成しないLGBTの方々が、この映画を見て、語り合ったわけです。その語り会われた内容の方が、皆さん興味ありますよね。

 

映画終了後、2班に分かれてグループトークを行いました。僕は片方のグループにしか参加していないので、そのグループの内容に偏ってしまいますが、こんな意見が出ていました。

 

①自分がそうなったとき、認知症を受け入れられるかどうか問題(抗ってしまいそうな自分をどうするか)

②子供の重要性(認知症患者とある意味対等に触れ合える、そして患者とケアラーのクッション材になれる)

③がまんせずに助けを求められる、他者に対して自分を“開く”能力としての“受援力”(どうせなるようになる、なるようにしかならない、それをどう受容するか。それは男は苦手で、女は得意?問題)

④引きこもろうとする自分を、半ば強引に、外の世界へ“連れ出してくれる”存在は、将来はたしているのか?得られるのか?

⑤将来どう住むか?家族がいないのであればシェアハウス的な実践は重要だが、はたして非血縁的関係性で、認知症を支える“繋がり”を作れるのか?

 

うーん、羅列すると、なんだかわからないですね・・・。

よし、自分なりに集約してみよう!

要するに、

 

・スティグマを減らし、“弱い自分を他者へ開いていける”そんな社会、そして自分自身をどう作っていくか問題

・しがらみの元でもあり、ケアのリソースの源泉でもある、“家族”は、必要か?必要なら、LGBTはそれをどう作るのか問題

この2点ではないでしょうか。

 

“受援力”やスティグマ問題に関しては、ケアの専門職の方々は日々見ているので問題なさそうですが、そうではない方々(特に日々経済社会で肩ひじ張って闘って生きている普通の方々w)は、まずここがスゴイ大変そうだろうな、、と思いました。

もちろん、ここ数年で、テレビでも認知症のことがこれだけやっていますし、社会全体が高齢化していく中で、時が経てば受援力は自然と身についていくのかもしれない、というポジティブな方もいます。自分達が老人になるころには(ゲイへの偏見がほとんどなくなっているように)認知症への偏見もなくなっているだろう、と。

 

逆に、後者の“家族”をどう作るか問題は、本当に見えないですね。参加者には、ルームシェアを意識的に実践し、“なかま暮らし”のプロもいらっしゃいました。そんな彼でも、この映画を見て、血縁ではない、ゆるい同居というだけで、毎アルの家族的繋がりを再現できるか、不安を感じるわけです。(いわんや~~をや、ですね)

 

社会学者の宮台さんがよく「社会は“いいとこどり”できない」と言っていますが、家族に関してもそうだなぁ、と思います。

僕もよく地域包括ケアの調査で地域の民生委員さんやケアマネさんのお話を聞いていると、「同居家族がいる方が、介入しづらい。同居家族が、介護サービスや社会資源を使うことを(無言の圧力で)止める。独居の方がよっぽど介入しやすいし、幸せにしてあげることができる」という事例は取っても多いです。そういう話を聞くと、「なんだ、家族なんていない方がいいんだ、家族いなくても友達と社会資源をうま~く繋ぎ合わせて、幸せにやっていけるんだ」と思って安心することがあります。

しかし、「毎アル」を見ると、そういう、うま~く「つまみ食い」的な介護なんて実際にあり得るのか?またあり得たとして、それがしがらみつつも生きる“家族”の中での介護に、勝るものなのか、色々と考えさせられるところです。

 

こうなると、“家族ってなんだ”問題へと言ってしまうので、これはまた来年になかま暮らし研のテーマに譲ることにしましょう。

なにはともあれ、様々な気づきを得ることができたイベントになりました。当事者の不安は、尽きることがない・・・・

そういう意味でLGBT非当事者であるノンケの参加者(冒頭の、たまたま参加したカップル)から、「認知症のスティグマが薄れ、誰もが助けを求められる、認知症フレンドリーな社会になっていくことを切に願う。そして、そういった社会はきっとLGBTフレンドリーな社会と同じものであるだろう」という趣旨の発言が出たとき、あぁ、このイベントをやってよかったなぁ、と思ったのでした。